「濃い」
正直言ってこの人の作品にはあまり興味がなかった。
どの作品を見てもそれほど衝撃を受けることもなかったし、知っていたのも原爆堂計画、本店も含めた親和銀行の幾つかの店舗、虚白庵(自邸)、そして一番著名度の高い渋谷区立松濤美術館くらいしかなかった。とりあえず重い・・・
何故、今更白井晟一なのかと思いつつ京都工芸繊維大学美術工芸資料館の「建築家 白井晟一 精神と空間 」へ(1週間前のこと)
受付で200円を支払う。「2階が本校卒業生、白井晟一の展覧会です。それから1階ではベルギー木の匠の技展もやっています・・・」

孤高の建築家と呼ばれた白井晟一(1905〜83年)は、銅造りの家柄である白井伸銅の当主・白井七蔵の長男として京都に生まれました。
12歳で父を亡くした白井は、姉の嫁ぎ先である日本画家の近藤浩一路に引き取られます。
1928年、京都高等工芸学校(現・京都工芸繊維大学)図案科を卒業後、私淑していた哲学者の戸坂潤や深田康算の勧めに従って、ドイツに留学した白井は、当時のモダニズム建築の動きに接することなく、カール・ヤスパースの下で哲学を学び、ゴシック建築にも出会っていきます。
こうして、帰国後の1935年、義兄・近藤浩一路の自邸の設計を手がけたことをきっかけに建築を志し、
建築家としての道を歩み始めるのです。
戦前にはいくつかの木造住宅を手がけ、戦後に入ると、「秋ノ宮村役場」(1951年)など、知遇を得た東北秋田での仕事を皮切りに活動の幅を次第に広げ、独自の作風を確立していきます。
そして、「原爆堂計画」(1955年)や「善照寺」(1958年)などを経て、「親和銀行本店」(1968年)によって日本建築学会賞を受賞、1983年に78歳で京都に没するまで、およそ半世紀にわたって建築家としての活動を続けました。
寡作ながらも、その建築には、幅広い教養と哲学、ヨーロッパ経験に裏打ちされた精緻なディテールと確かな素材感があり、奥行きと陰影に富む独特な空間が実現されています。
また、白井は、建築だけでなく、装丁や書の世界でも多くの優れた作品を残しました。
本展では、日本近代建築の異端として、今なお建築の根源的な意味を問いかける存在でもある白井晟一とはどんな建築家だったのか、何を求めていたのか、設計原図やスケッチ、写真、模型、その他の資料を通して、その建築と思想の全体像に迫ります。


和紙に描かれた手描きの図面。インキングの図面はCADで描かれた図面よりももっと精密に見えたし、鉛筆で和紙が歪むほど陰影をつけた図面は建築に対する想いが描き込まれていた。図面が気持ちを他人に伝える手段とするならこれほど伝わってくる図面も少ないように思う。表現の方法が全てデジタル化された今、思わず考えさせられてしまったが、来て良かったと思った。