また話が最初にかえりますが、私は、学校では、もてあまし者でした。様式の問題が出ても、様式をやらないで、もうセセッションばかりやって、学校では非常に成績が悪いし、手に負えないもてあまし者でした。手に負えないというのは少し語弊がありますけれど・・・・。とにかく様式の建築なんてやったことがない。問題が出てもやらない。まあ、それでよく卒業できたと思いますがね。(笑)

それがね、渡辺先生の所に来た頃は、いわゆる折衷主義の頃でした。大きな建物は、今の欧米へ行って、実物を見て、西洋式なものを、みんながほしがるわけです。ところが日本の場合は経済的条件、社会的条件が近代化されていて、その上に様式を上からかぶせるものですから、いわゆる折衷主義の建築というのがそこに出てくるわけです。そういう様式、折衷主義の建築を渡辺先生のところでやらされ、学校では私はそんなのはやったことがない・・・・。それですから、うちわけ話をすれば、渡辺先生の所に入った時、もういろいろと無理を言いました。村野に来てもらったけれども、これはとんでもない者が来たんだという状態でした。最初の三年間というものは、本当に苦労しました。


本当に苦労して、いつ出ようか、いつ出ようかと思っていると、たまたまあるコンペがあって、事務所同士のコンペがあって、私の案を事務所から出した。それが当選をしまして、それから渡辺先生が、なるほど、学校を出たものには、直ぐ原寸とかをやらせるのはまちがいだというのがわかって、それから先、私の運が開けたようなものです。それから渡辺先生から次から次に様式的な建築をやらされるようになった。いわゆる折衷主義の建築ですね。
その時に渡辺先生がおっしゃったのは、「村野君ねえ、売れる設計をしてくれ」と。


これはね、なかなか渡辺先生らしい、かつ、また大阪らしい、私は非常にサラッとしたいい言葉だと思いました。設計は売れる建築をして、あんまり芸術論など言わないほうがいいと。実際、事務所を経営するには、それからクライアントを満足させるには、これでなければいけないんだと思います。それでいて渡辺先生は様式論者かというとそうではない。しかし、事務所の経営、クライアントの意向を満足させるには、どうしてもそうなる。売れる建築をしてくれ、設計をしてくれ。それはね、実際的で経営者としては、当然のことだと私は思うのです。今になってそう感じる。


ところが、それをだんだんやって行くうちに、様式建築の面白さが出て来て、その渡辺事務所での最後の作品がこの綿業会館です。私が綿業会館に対して格別に関心が深いのはそういうわけです。

対話講座なにわ塾叢書4「建築をつくる者の心」村野藤吾より引用








前回に引き続き大阪へ行った時のこと。北浜「綿業会館」



ひょっこっと逃げる階段。