打ち合わせで名古屋へ。近くを通ったので槇文彦氏32歳の時の名大豊田講堂へ。


1960年に槇文彦の設計で名古屋大学東山キャンパスの中心に建てられ、同大学のシンボルとなっている。鉄筋コンクリート造・打放しコンクリートの地下1階・地上3階建てで、講堂は1,612席の客席を有する[1]。大学や附属中学校・高等学校の入学式・卒業式などの行事が行われる。
1962年には日本建築学会賞を受賞しており、槇文彦の代表的な建築物の一つとして建築学会では大きな評価を得ている。また、1993年に名古屋市の都市景観重要建築物に指定、2003年には日本におけるDOCOMOMO100選に選定されており、日本を代表するモダニズム建築の一つとして評価されている[1]。
トヨタ自動車工業(現トヨタ自動車)の寄付で建設されたが、名前はトヨタ自動車の源流となる豊田自動織機創立者豊田佐吉にちなんで付けられたため、「とよたこうどう」ではなく「とよだこうどう」が正しい読みである。




槇文彦氏については

東京都出身。母方の祖父は竹中工務店の会長を務めた竹中藤右衛門。東京大学工学部建築学科に入り、1952年卒業。丹下健三の研究室で外務省庁舎のコンペを担当した後、アメリカ合衆国に留学し、クランブルク美術学院およびハーバード大学大学院修士課程修了。1954年に、スキッドモア・オーウィングズ・アンド・メリル、翌1955年には、セルト・ジャクソン建築設計事務所に勤務。その後はワシントン大学 (セントルイス)とハーバード大学で都市デザインを講じた。1965年に槇総合計画事務所を設立。1979年 - 1989年に東京大学教授を務めた。戦後モダニズム建築の正統的な建築家と評されている。


ハーバード大学時代にジョゼップ・ルイス・セルトのスタジオで学んでいたこともあり、かなり純粋なモダニズム建築の作家といえる。
ヒルサイドテラスは旧山手通り沿いで数次にかけて実施したプロジェクトであるが、ヒューマンスケールな空間構成、成長する都市建築として高く評価されている。10m軒線を守り、用途地域が変わった第六期では、10m以上の部分をセットバックさせている。一方、幕張メッセなどではモダン・無機質でメタリックなデザインが印象的である。
「空間の重層性」を意識し、東京キリストの教会の礼拝堂大開口や、テレビ朝日の立体格子などに特徴的に現れている。
槇の建築の端正さは、日本のゼネコンの技術力によるものだ、と言われたこともある。しかし、イザール・ビューロ・パークで現地の施工業者を使い、第一線級の作品を仕上げたことでその評価が誤りだったことを証明した。(GA JAPAN二川幸夫が述べたエピソード)
槇本人が、作風について「豊田講堂が一番丹下先生に近かった。」と述べている。(新建築)
「タマちゃんのような建築をつくりたい。」と述べた。(GA JAPAN
福田和也曰く、「現在世界で一番ヴァルター・グロピウスのコピーが上手な建築家である。」とのこと。


私見だが丹下健三の打ち放しはコルビジェよりきめ細かく、槇文彦の打ち放しは丹下健三のそれよりさらに繊細と感じた。



内部は・・・・






「三つ子の魂・・・」ではないが正に槇文彦の空間。