未来を射抜け 三十三間堂で新成人が通し矢
新成人らが弓道の腕を競う「通し矢」が15日、京都市東山区三十三間堂であった。はかまや振り袖姿の新成人が射場に並び、自らの成長を誓って力強く弓を引いた。通し矢は、江戸時代に武士が三十三間堂の長い軒下で弓の腕を競ったことに由来する。現在は京都府弓道連盟と妙法院門跡が「三十三間堂大的(おおまと)全国大会」として共催。新成人1982人と熟練者75人が参加した。
射場には直径1メートルの的が4カ所に設けられ、参加者は横一列に並んで60メートル先の的を狙った。新成人らは静かに呼吸を整え、ゆっくりとした所作で矢を放った。

京都新聞WEB版1月16日より)


何度も横を通り過ぎているのだがなかなかゆっくり見る機会の無かった三十三間堂。七条界隈を歩いたついでに寄ってみた。通し矢の現場を見てみると的を射るのが如何に大変か判る。

国宝 三十三間堂
正式名は、蓮華王院で、その本堂が「三十三間堂」と通称されます。これは、東面して、南北にのびるお堂内陣の柱間が33もあるという建築的な特徴によります。「三十三」という数は、観音菩薩の変化身三十三身にもとづく数を表しています。
平安後期、約30年の間、院政を行った後白河上皇が、自身の職住兼備の「法住寺殿・ほうじゅうじどの」と呼ぶ院御所内に、当時、権勢を誇った平清盛の資財協力によって創建したものでした。 ところが、そのお堂は建長元年(1249)、市中からの火災により焼失し、鎌倉期・文永3年(1266)に再建されたのが現存のものです。朱塗りの外装で、堂内は、花や雲文様の極彩色で飾られたといい、今もわずかにその名残を停めています。
地上16メートル、奥行き22メートル、南北120メートルの長大なお堂は、和様、入母屋造り本瓦葺きで、手前からはるか彼方へ一点透視的に漸減する眺めは、胸のすく壮快さです。
三十三間堂の免震法
お堂の建てられた平安期、都には見上げるような大建築がありましたが、その多くは、地震や火災のために、短期間で姿を消してしまいました。この反省から、工人たちは様々な工夫を凝らしたのです。
まず、基礎地盤には、砂と粘土を層状に堆積して地震時の地下震動を吸収する〈版築・はんちく〉を用い、堂内の屋台骨は、柱間を2本の梁でつなぐ〈二重虹梁・にじゅうこうりょう〉とし、外屋の上部も内・外柱に二重の梁をかけて堅固さを増加しました。 加えて、構架材の柱や長押、梁は“揺れ”を予測した組み方とし、土壁面積を極力小さくした上で、溝を切った柱に板壁として横板を落し込む〈羽目板・はめいた〉とするなど、お堂は、波に揺れて浮ぶ筏のように“揺れ動く”建築としての免震工法が施こされたのです。












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