行こう、行こうと思っていた京都国立近代美術館(近美)の「パウル・クレー」展(終わらないアトリエ)へ
連休ということもあってか超満員。例によってカニ歩きしながら作品を観ていく。
今回は制作の過程までを紹介するような企画のため、展示としては盛り沢山ではあったが、観終わってみると果たして作品といわれるものがどれだかあったかという感想は残ったし、伏せられて観せられればカンディンスキーと答えてしまいそうな作品もあったが、色彩といい、ペンの細やかなタッチは観に行って良かったとつくづく思った。また、今回は油彩転写などクレーの技術的な側面から展開しよういう試みは興味深かった。公式HPでも一部紹介されている。作品の大部分はベルンにあるレンゾ・ピアノ設計のパウル・クレーセンターからのものだった。

1919年にはミュンヘンの画商ゴルツと契約を結び、翌1920年にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれた。またエッセイ『創造的信条告白』を発表し、現代美術の最前線に位置する画家の一人として知られるようになる。同年にグロピウスの招聘を受け、翌1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとった。この時期にはニューヨークやパリで個展が開かれ、第1回シュルレアリスム展に参加するなど(もっとも、クレーの側からのシュルレアリスムへの関与はこの一回だけであった)クレーの名は国際的に知られるようになる。またロシアから戻って同じくバウハウスの教授となったカンディンスキーとは、一時期アトリエを共有していた。クレーは造形や色彩について講義を行い、のちにはカンディンスキーと共に自由絵画教室を担当するかたわら、絵画理論の研究に取り組み、多くの理論的著作を残した。造形について、色彩についての様々な研究は講義のための準備とクレー自身の表現の探求の両方を兼ねており、そのような研究を経るなかでクレーの芸術観と絵についての考えはいっそう深化していくことになる。その一方で各地への旅行も行い、特に1928年から翌年にかけてクレー協会(1925年に組織された、クレーの作品を優先的に購入することが出来る少人数の会)の支援を得て実現したエジプト旅行は、その後のクレーの作品に多大な影響を及ぼしている。

近美の1階ロビーで奥さんを待つお父さんたち。


カフェテラス


クレーの絵本

クレーの絵本