今日の日曜美術館再放送は「戦争と芸術 クレー 失われた絵」

前回、見逃していたので1週間遅れの再放送は有難かった。

1879年、スイスの首都・ベルン近郊のミュンヘンブーフゼーに生まれた。父は音楽教師、母も音楽学校で声楽を学ぶという音楽一家であった。クレー自身も早くからヴァイオリンに親しみ、11歳でベルンのオーケストラに籍を置くなど、その腕はプロ級であり、1906年に結婚した妻もピアニストであった。クレーの音楽に対する深い理解はバッハやモーツァルトらの古典音楽からストラヴィンスキーヒンデミットら現代音楽にまで幅広く及び、クレーの作品の画題にはポリフォニーやフーガといった音楽用語が用いられているものもある。
その一方で絵画への関心も既に幼少の頃から芽生えていた。また文学にも興味を持ち、創作に手を染めたこともあったが、迷った末にクレーは音楽や文学ではなく絵の道を選ぶことになる。ただ絵に専念することを決めた後も音楽や文学への関心は薄れることがなく、一日にヴァイオリンを何時間も演奏したり、また詩を作って日記に記したりもしている。18歳の頃から書き始めた日記は日々の出来事や創作した詩を書くだけのものに留まらず、クレーの絵画及び芸術に対する考えや方向性を鍛え上げていく場となった。
(中略)
1919年にはミュンヘンの画商ゴルツと契約を結び、翌1920年にはゴルツの画廊で大回顧展が開かれた。またエッセイ『創造的信条告白』を発表し、現代美術の最前線に位置する画家の一人として知られるようになる。同年にグロピウスの招聘を受け、翌1921年から1931年までバウハウスで教鞭をとった。この時期にはニューヨークやパリで個展が開かれ、第1回シュルレアリスム展に参加するなど(もっとも、クレーの側からのシュルレアリスムへの関与はこの一回だけであった)クレーの名は国際的に知られるようになる。またロシアから戻って同じくバウハウスの教授となったカンディンスキーとは、一時期アトリエを共有していた。クレーは造形や色彩について講義を行い、のちにはカンディンスキーと共に自由絵画教室を担当するかたわら、絵画理論の研究に取り組み、多くの理論的著作を残した。造形について、色彩についての様々な研究は講義のための準備とクレー自身の表現の探求の両方を兼ねており、そのような研究を経るなかでクレーの芸術観と絵についての考えはいっそう深化していくことになる。その一方で各地への旅行も行い、特に1928年から翌年にかけてクレー協会(1925年に組織された、クレーの作品を優先的に購入することが出来る少人数の会)の支援を得て実現したエジプト旅行は、その後のクレーの作品に多大な影響を及ぼしている。
(後略)

Wikiより引用

放送の中でベルンにあるレンゾ・ピアノ設計のパウル・クレーセンターが少しだけでてきてたが、バウハウスについては何も無かった。

写真もWikiより転載。
パウル・クレーについてはswiss infoに詳しい記事があります。